
親の遺品整理を進める中で、
お焚き上げに出すものを一か所にまとめている。
写真や手紙、日記など、簡単にゴミとして処分できないものたち。
仕分けをしていると、
お焚き上げに出すつもりで取っておいたものの中にも、
包装紙やケースなど普通ゴミとして処分できるものが意外と多く混ざっていて、
一つひとつ確認しながら分別している。
嵩張ると料金も高くなるので。
そんな作業をしていると、
自然と考えることがある。
「自分が死んだ後、残されたものはどうなるんだろう」と。
今回、お焚き上げに出すものの中には、
両親が若い頃に書いた日記もあった。
母が最後まで大切に持っていたもので、
ゴミとして処分する気にはなれなかった。
読んでみると、こちらが恥ずかしくなるくらい、お互いへの想いが綴られている。
そんなに好きだったんだなぁと思う一方で、
父が母に向けた文章には、
後になって現れるモラハラ気質の片鱗も見え隠れしていて、
「あぁ、この頃からだったのか」(´Д` )
と思ったりもした。
そうして日記を読みながら、
私は自然と両親の人生、
そして自分の子ども時代へと思いを巡らせていた。
もしタイムマシンがあって、
若い頃の母に会えるなら。
私は結婚を考え直すよう全力で説得する。
その結果、
自分が生まれなくなったとしても構わないと思うくらいだ。
それほど子ども時代は苦しかった。
特に父との関係は、
私の人生に長く影を落としていた。
距離を置いていても重たかった存在が、
同居介護ではさらに重くのしかかった。
介護をしていた頃は、
自分の命の時間を吸い取られているような感覚さえあった。
生きている親から自由になることなど想像もできなかった。
しかし今、両親はともに亡くなり、
遺品整理もようやく終わりが見えてきた。
家の中は少しずつ「親の家」から「私の家」へと変わりつつある。
その変化とともに、
私自身の気持ちにも変化が生まれてきた。
不思議なことに、今になってようやく、
自分自身の人生が始まったような感覚がある。
結婚して二十年以上。
来年か再来年には銀婚式。
本来なら、とっくに親離れして、
自分の人生を歩いていてもおかしくない年齢だけど
それなのに、私はずっと親の呪縛の中にいたのだと思う。
だからこそ今、遺品整理が進み、
家の中が整ってくるにつれて、
「これから私はどう生きたいんだろう」
と考えるようになった。
気づけば51歳。
決して若くはない。
だからこそ、元気なうちに何をするのか、
どんな暮らしをしたいのかを考えたいと思う。
そして、過去を振り返る中で、
もう一つ強く感じることがある。
子どもが「自分は親に愛されている」と安心して育つことの大切さ。
お金があるとかないとか、
そういうことではない。
(まぁお金派重要ですが)
愛されているという確信を持って大人になれること。
それだけで人生のスタートラインはずいぶん違うのだと思う。
振り返れば、父も母もそれぞれ複雑な家庭環境で育っていた。
寂しさを抱えた者同士が出会い、
支え合おうとして結婚したのかもしれない。
でも、その結果として共依存やモラハラという形になり、その影響は子どもにも及んだ。
負の連鎖は確かに存在する。
けれど私は、
絶対ここで止めたい。
息子には同じ思いをさせたくない。
お焚き上げに出す箱の山は、
単なる片付けの途中経過ではなく
そこには、親の人生と、
自分の人生の区切りが積み重なっているのだと思う。
最後に
一番重要な気づきは
小っ恥ずかしい黒歴史は
処分に限る(`・ω・´)
読んでいただきありがとうございます😊